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2021年7月 5日 (月)

第312回 オリンピック

コロナ感染者が増え続けている中でオリンピックが強行されそうです。近代オリンピックは、主権国家同士の闘いではなく地域ごとの代表がそれぞれの技能を競い合う平和の祭典として始まったはずでした。残念ながら、1979年の旧ソ連によるアフガニスタン侵攻をきっかけに1980年モスクワ五輪では政治紛争に巻き込まれてしまいます。1984年のロサンゼルス大会あたりからは、スポンサーの広告価値を高める工夫や巨額な放映権料など五輪はビジネスの祭典の様相を持つようになりました。

私などはオリンピックというと、講義でもよく話をするヒトラーによる国威発揚を想起してしまいます。コロナ禍の中でそこだけ異質の空間であるかの如く行われている聖火リレーもヒトラーが始めたことでしたし、開会式を派手なイベントに仕立て上げたのもヒトラーでした。1936年のベルリンオリンピックの次は東京に決まっていましたが、第2次世界大戦が始まり中止になってしまいます。

1960年の安保闘争、岸内閣退陣。そして池田内閣による国民所得倍増計画によって、日本は一気に経済成長路線へと突き進んでいきます。そんな高度経済成長による経済的繁栄の象徴としての1964年の東京オリンピックを私も幼稚園のテレビで何かの競技を観ていた記憶があります。ですがあまり興味がなく飽きてしまって、部屋を出て一人で園庭で遊んでいたことを覚えています。当時から自分勝手に行動する困った園児だったようです。

私は当時、オリンピックそのものよりも、オリンピックに合わせて開通した新幹線の方によほど興味がありました。1964年10月1日の開業前の試運転車両に乗る機会があり、その早さと快適さに驚きます。オリンピックに向けて、鉄道、高速道路の整備をはじめとして日本の姿がどんどん変わっていったことを子どもながらに感じていました。

当時はオリンピックも日本人の意識を1つにするために大いに役立ったのだと思います。安保闘争で疲弊した労働者は賃金アップにつながる企業戦士として身を粉にして働き続けます。皇民化教育によって天皇のために団結した日本人が今度は企業のために一致団結して、終身雇用の下、会社という新たな「家」に守られてモーレツに働きました。妻は家庭を守り、夫は会社で残業をも厭わず働き続けるというジェンダーギャップの基本型が社会に定着していったのもこのころからでしょう。オリンピックが当時の日本にとって大きな転換点であったことは確かなのだと思います。

では、東京2020はどのような意味をもった転換点となるのでしょうか。これだけコロナ対応で国の無策を見せつけられ、助成金対象の不公平、交付手続の不透明性、飲食店へのいじめに等しい自粛要請の連続で、さすがに政権に従順な物分かりの良い国民のままではダメだと気づいた人も少なからずいるようです。唯一頼みの綱のワクチンも変異株の猛威の前に不確実なものとなっています。この状況の中でオリンピック開催を強行する姿は、何人もの識者が指摘するようにまさに旧日本軍の敗戦に突き進む構図そっくりです。何があっても誰も責任を取りそうにありません。

そして、2012年のロンドン五輪もそうだったと聞きますが、開催前は反対していた人も、一度オリンピックが始まり日本のメダル獲得によってあっという間に国内のムードはオリンピック一色になっていくのでしょう。仮に感染拡大を招いたとしても、オリンピックを政権浮揚の起爆剤として徹底して利用するのだと思います。「世論の反対にも負けずに開催を決断した勇気ある首相」として国民から喝采を受けるかもしれません。ヒトラーが狙った国威発揚のためのオリンピックそのものです。

アジア太平洋戦争のときに戦争に反対した人もいましたが、軍部と特高警察に粛正され、皇民化教育、戦死を栄光として顕彰する靖国神社というシステムによって臣民も一体となって戦争に突き進み誰も止めることはできませんでした。しかし、今は当時とは異なり、国民を主権者とする憲法があります。曲がりなりにも日本は民主主義国家です。ということは、どんな政権であろうと、それは主権者国民が選び正当性を与えるのですから、すべての結果は国民が自ら招いたものであり、国民がすべて責任を負担すべきものということになります。

憲法前文には、「そもそも国政は国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。」とあります。主権者たる国民が自らの意思で国会議員を選び、国政を託しています。「その福利は国民が享受する」とありますが、反対に「その災禍も国民が負担する」ということになります。治者と被治者の自同性という民主主義は、国民の選択の結果がブーメランのように自らに返ってくる制度なのです。

昨年来のコロナ対策への評価やオリンピック開催に向けてのドタバタなどから、このオリンピックを現政権にこのまま任せていいのかという疑問を持った国民が、こうした民主主義の本質を身を以て体感し、主体的な口うるさい物言う国民になる転機になるのか、それともオリンピック開催によって盛り上がった国民のムードが現政権を浮揚させ、主権者が天皇だろうが国民だろうが日本は変わらないという残念な歴史を後世に残すイベントになるのか、私たちの意思次第です。こう考えてみると、1票の持つ政治的影響力が住む場所によって違う現行選挙制度は、極めて罪が大きく許されません。何としても一人一票を実現しなければいけないと改めて思います。