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2021年8月

2021年8月 3日 (火)

第313回 オリンピックと戦争

今日の東京も耐えられないほどの猛暑でした。東京の7、8月について「穏やかで晴れた天候が多く、選手が最善を尽くすために理想的な気候を提供する」とアピールして誘致したオリンピックですが、こうして明らかな嘘から始まり、原発汚染水のアンダーコントロール、復興五輪、おもてなし、コンパクト五輪、新型コロナウイルス感染症に打ち勝った証、そして多様性と調和など、大会運営側の嘘と白々しさにうんざりしながら、選手たちの活躍だけが救いになってしまっています。

コロナ感染者が過去最高と伝えられ、医療体制の逼迫も報じられる中でも、テレビやネットでは連日、オリンピックでの日本人選手の活躍が報道されています。アスリートたちの苦難の末に勝ち取った栄光を称えるドラマは人々に感動を与え、皆さんの中にも勇気をもらったという方もいると思います。様々な困難な環境の中で勉強し、合格を目指している受験生には、感情移入しやすいエピソードも多いことでしょう。

ですが、8月は原爆投下や敗戦という歴史を通じて戦争を考える時期でもあるので、あえてオリンピックと戦争について考えてみます。戦争とは、集合的・組織的暴力であり、近代的戦争の基軸価値は資本だと言われています。戦争の対局にある平和とは、暴力の不在または低減を意味します。これは、積極的平和主義の提唱者で平和学の権威であるヨハン・ガルトゥング教授の見解ですが、私もそう思います。

暴力の応酬である戦争では相手を打ち負かし、戦いに勝つことが何よりも重要となります。そのためにあらゆる資源を投入して軍備を増強し、装備の近代化のために資金力の大小がものを言います。他方で、オリンピックも五輪憲章には反しますが、実際は国家の威信をかけてメダルの数を競い、時に排他的ナショナリズムを煽り、勝ちに拘ります。スポーツは競争という本質において戦争と類似性がありますし、今日、練習、遠征、科学的分析など資金力がものを言う点でも共通しています。近代オリンピックが、特にロス五輪以降は、金儲けの手段になってしまったことについては、前回も述べましたが、戦争ほどもうかるビジネスはないという現代の戦争の実態からみても、かなりの共通点があることがわかります。

古代オリンピックも古代ギリシャの競争社会において、直接的な暴力の応酬の代替として紀元前9世紀ころのギリシャの暗黒時代に宗教行事として生まれたと言われています。古代ギリシャといえば、法廷で弁論術を競ったり、劇場では演劇を競ったり、政策を弁論し多数決で競う民主制など、勝負や競争ととても親和的です。

戦争と様々な共通点があるオリンピックですが、古代オリンピックにおいて人々が参集できるようにするために、神聖休戦という慣習がありました。それに倣って、近代オリンピック創始者であるクーベルタン男爵は、停戦の思想がオリンピズムの一つであると演説しています。国連では1993年に初めてオリンピック停戦が決議され、その後も慣例化されました。ですがその実効性には疑問もあります。

2001年9月11日の同時多発テロ、それに続くアガニスタン戦争、イラク戦争開始の後に行われた2004年アテネ五輪においても、国連の停戦決議はなされていますが、停戦は実行されず、イラクではオリンピック期間中でもアメリカによる空爆が続けられました。大量破壊兵器の存在とテロリストとの結びつきを理由に始まったイラク戦争でしたが、こうした証拠は全くなく米国ブッシュ政権によるでっち上げだったことは、現在では世界で周知の事実となっています。ですが当時の世界中の人々はオリンピックを楽しむことで、イラクで起こっている大量虐殺を無視することができたのです。恐るべきオリンピック効果です。

オリンピックを連日報道することによって、オリンピックは観る者に感動と共感を与え、世界を連帯と協調に満ちた美しいものとして映し出していきます。これによって戦争やコロナ感染症から国民の関心をそらし、政治を美しく成功したものとして印象付けます。これが政治の美化というオリンピックの効果です。1936年8月1日から16日まで行われたベルリンオリンピックにおいて、ヒトラーは大会組織委員会総裁を務めますが、オリンピック史上初めての聖火リレーや開会式の豪華イベント化などの新機軸を打ち出しながら、国威発揚のための聖典としてレニ・リーフェンシュタール監督に歴史に残るオリンピック映画「民族の祭典」「美の祭典」を製作させます。美しい映像を通じてホロコーストを始めとするナチスの負の側面を見事に覆い隠しました。現代ではデジタル技術を駆使した映像によって簡単にテレビやネットを通じて感動を共有できます。

東京2020においても、オリンピックが始まる前はコロナの感染拡大や様々な不祥事から開催に反対していた人たちも、連日のメダルラッシュに沸き立ち、祝福と称賛の声が街中にもメディアにも溢れ感動に浸っています。やはりオリンピックはお祭りなのです。祭りはそもそも日常の憂さを晴らして気持ちをリセットし共同体としての絆を深めるためのものですから、オリンピックが「民族の祭典」として利用されることは当然であり、こうした祭りごとをうまく利用して大衆支配することこそが政(まつりごと)の本質なのだと思います。その意味では、戦争やコロナなどから目をそらすためのオリンピックの政治利用は、祭りごととしての正しいオリンピックの利用方法なのかもしれません。

私は決してアスリートの頑張りに水を差したいわけではありません。ただ、物事を見るときに報道されるような一面的な見方だけに染まってしまうのではなく、まさに多様な視点が必要だということを指摘したいのです。法律家、行政官をめざす皆さんに必要なことは、多様な視点を持ち続けることです。そして権力や多数派の声を疑ってみることです。そのことによって仮に権力を行使する立場になったときであっても、自分を客観視できるようになるはずです。オリンピックの最中にあっても8月6日、9日は過去から未来を考えるために大切にしたいと思います。